「メモ魔と快楽と聖域」

はじめまして。レディオといいます。

この度、カウンセリングの先生に、コラム掲載のありがたいお話を頂きました。

 私は現在、毎週木曜日に作業所の仕事の一環として、noteを書いています。そして大変ありがたいことにカウンセリングのO先生から、「ホームページにコラムを載せませんか」というご提案をいただきました。
 今までは誰も見ていないような気持でだらだらと書いておりお粗末様でしたが、今後は多少読んでくださる方へ配慮して作文を練習せねばと思います。といっても書くことは相変わらず、「駄文の日記」です。どうぞよろしくお願いします。

「メモ魔と、快楽と、聖域」

「メモの魔力」という、今年よく売れた本を読んだ。起業家の方が執筆した本で、随所に散りばめられた横文字言葉に胡散臭さが表れていたが、ためになる内容もあった。長々書かれていたがどちらかというとノート術といった内容で、メモ魔の私としては消化不良であった。


 私のメモ魔はかなり病的で、一種の強迫症状といえる。まず外出中、スマートフォンに忘れないようメモ。家に帰り日記帳へ、わざわざ手書きで写す。殆どが無駄なものばかりのため、五つ程重要案件と思ったものを更にノートへ清書する。その五つほどの作業を、夜通しちまちま行っているのである。働いてもいないのにこの段階的な作業はとても滑稽に思え、来年は上等な手帳を買い簡略化できないか思案中である。


 かつて大学院で、フランクル心理学を教わった。「コペルニクス転回」や「人生が私に何を期待するか」など新鮮な学びと出会えたが、耳に残ったのは「行動した結果、快楽がある」という言葉である。心療内科の先生も森田療法の教えとして、同じようなことを仰っている。私の場合一日のうち不快九割、快楽一割といった具合だが、とりあえず一日一割以上快楽を感じられるように過ごしていきたい。


 この間私の書いた駄文を、ゼミの先生にお見せした。色々と分析して頂き興味深かったのは、まず儀式的なものに固執性があるということ。そして日々の暮らしに「やらされ感」があり、落ち込んでしまうこと。その反動として自分が生きている実感溢れるイベントを神聖なものとして支えにしていること。この三点である。イベントを遂行することで毎日を柔軟に対応できるように、とご指導頂いた。


 「予定を崩されると、怒りが爆発します」と愚痴をこぼしたら、先生に「健康な反応ですよ」と仰って頂き嬉しかった。周囲の高齢化により私のリズムが乱されているが、どんどん我が道をゆこうと思う今日この頃である。